投稿者: kazokukoutei

  • 「間」があるから、伝わる

    「間」があるから、伝わる

    家族のことを大切に思っている。

    だからこそ、

    「それは危ないんじゃない?」
    「そんなふうに考えなくてもいいのに」
    「こうしたほうが、あなたのためだよ」

    と言いたくなることがあります。

    きっとそこには、愛があるんです。

    相手に傷ついてほしくない。
    失敗してほしくない。
    少しでも楽になってほしい。

    でも、その愛が相手にちゃんと伝わっているかというと、そうとは限らないのかもしれません。

    私は「間」というものを、とても大切にしたいと思うようになりました。

    「間」を大切にするということ

    私の憧れの女優さんの一人に、松坂慶子さんがいます。

    ドラマの中では、きびっとしたお母さんを演じられたり、美しく強い女性を演じられたりします。

    でも、インタビューなどでお話しされている松坂慶子さんを見ていると、とても「間」があるんです。

    相手が話し終わるまで待つ。

    そして、その言葉を一度自分の中に受け取ってから、言葉を選ぶようにゆっくりと返す。

    私は、あのお話の仕方にとても憧れています。

    というのも、私は娘からよく、

    「ママは、かぶせてくる」

    と言われていたからです。

    相手がまだ話し終わっていないのに、

    「でもさ」
    「もっとこう捉えたらいいのに」

    と、言葉をかぶせてしまう。

    私としては、否定しているつもりなんてありませんでした。

    むしろ逆です。

    大切だから。
    心配だから。
    少しでも楽になってほしいから。

    良かれと思って伝えていたんです。

    でも相手からすると、

    「否定された」
    「私の気持ちを分かってもらえなかった」

    と感じる瞬間だったのかもしれません。

    愛がなかったわけではない。

    ちゃんと愛していた。

    ただ、その愛が相手に届く前に、私の言葉が入ってしまっていたのかもしれません。

    もし、そこにほんの少し「間」があったら。

    相手が話し終わるまで待つ。

    すぐに答えを返さず、一度その言葉を自分の中に受け取る。

    そして、

    「あなたは、そう思っているんだね」

    と、まずその人の気持ちを受け止める。

    それだけで相手は、

    「この人は、私の話を聞いてくれている」
    「私の気持ちを受け取ってくれている」

    と感じられるのかもしれません。

    もちろん、相手の言うことをすべて、

    「正しいよ」
    「それでいいよ」

    と認めることとは違います。

    意見が違うこともある。

    「それは危ない」と思うことだってある。

    それでも、その言葉を伝える前に、相手の思いを最後まで聞くことはできる。

    もしかしたら、

    心の器とは、相手の思いを最後まで聞き切る器なのかもしれません。

    そして、もう一つ大切にしたいのが、笑顔です。

    無理につくる笑顔ではなく、

    「あなたの言葉を、ちゃんと受け取っていますよ」

    という、柔らかな笑顔。

    私もまだまだ練習中です。

    つい言いたくなることもあるし、
    「でもね」と言葉を挟みたくなることもあります。

    そんなときこそ、ほんの少し「間」を置いてみる。

    言葉を急がない。
    答えを急がない。
    相手を変えようと急がない。

    「間」は、何もしていない時間ではなく、
    相手の心を受け取っている時間。

    家族への愛は、きっともうそこにある。

    だからこそ、その愛がちゃんと届くように。

    私も、松坂慶子さんのような柔らかな「間」を持つ女性になりたいと思っています。

  • 自分たちの土地で、他国同士が戦争するということ


    【パラオ旅行記②】
    自分たちの土地で、他国同士が戦争するということ
    ――パラオで広島県人の私が立ち止まったこと

    パラオの地図を見ていると、「防空壕跡」「海軍省」「特二式内火艇」の文字が現れます。
    それは、特別な施設でなく、道沿いや、高校のグラウンドの裏にむき出しです。

    錆びて、蔦が絡まり、その横では普通に緑が生い茂っている。
    それでも、撤去されない形で残してある。
    海の中にも、今もゼロ戦や、日本の船が沈んでいるそう。

    80年以上前の戦争の跡が、観光施設の中ではなく、
    今の暮らしの風景の中に残っているんです。

    パラオには、かつて日本の統治時代がありました。地元の人はJapanese Timeと呼んでいます。その前のスペイン→ドイツ時代よりも、学校ができ、道路も整備され経済も発展されたと聞きます。親日家が多いのもそのなごり。

    だけど、第二次世界大戦では、日本とアメリカの戦いの舞台にもなりました。沖縄が上陸されたように、グアム、サイパン、硫黄島のように、パラオも戦場になりました。

    パラオに行く前、昨年公開された「ペリリュー~楽園のゲルニカ~」というアニメ映画を見ていました。
    パラオの南西のペリリュー島は、島民は、別の島に疎開し、焼野原になりました。
    戦争が終わっても、やっと生き残った日本人が戦争が終わったことを知らず(知っても受け入れられず)2年間も島に隠れていたそうです。餓死、風土病で生き残って投降したのは34人。

    日本人が去ったあと、次はアメリカの統治時代が続き、1994年にやっと独立。
    1994年ってつい最近じゃんって思ってしまう。沖縄復帰よりあとだったんだ。と驚いた。

    ホテルから歩いて5分ほどに戦車が今もさびたそのままの形で眠っていた。
    戦争をしていた日本で、防空壕を身近に見ることもあまりないのに。

    「これは、誰の戦争だったんだろう」

    簡単に語れるものではありません。

    でも、いろんな理由をつけて
    ある国がやってきて統治し、
    その国が別の国と戦争を始める。

    そのとき、
    そこに昔から暮らしていた人たちはどうなるんだろう。
    統治時代の恩恵もあったでしょう。でも、別の側面もある。

    「日本時代はよかった」
    「日本はひどかった」
    とか、その一方で語ることはできない。

    自分たちが始めたわけではない戦争の中で、
    暮らしていた土地が戦場になる。

    家を離れなければならなくなる。
    土地が焼かれる。
    大切な場所が壊される。

    そんなことが、
    実際にこの美しい島で起きたんだ。

    そう思うと、
    「親日国なんだね」
    「日本とのつながりが深いんだね」

    それだけでは、
    私は終われませんでした。

    その一方で、
    ペリリューには、こんな話が語り継がれています。
    島民が「私たちも一緒に戦いたい」と申し出たとき、日本軍の中川州男大佐が「お前たちのような土人と一緒に戦えるか」という趣旨の厳しい言葉で拒んだ。
    島民たちは、日本人も自分たちを見下していたのかと傷ついた。
    けれど、疎開する船が島を離れると、日本兵たちが浜に現れ、涙ながらに手を振りながら見送っていた。
    その姿を見て島民たちは、「あの言葉は、自分たちを戦争に巻き込まないためだったのかもしれない」と受け取った――。

    どこまでが史実で、どこからが語り継がれる中で形づくられた物語なのかは、分かりません。
    でも私は、この話を聞いたとき、とても心に残りました。

    私は広島県人です。
    広島にも、普通に人が歩き、
    笑い、
    買い物をし、
    子どもたちが学校へ通う場所に、

    「あの日」がありました。、

    「戦争は嫌だ」

    という一言だけではなく、
    普通の人の暮らしはどうなるのか。
    想像できる人でありたいと思いました。

    戦車の周りには、草が生えていました。
    自然は、何事もなかったように、また命を育てている。

    夫は静かに、蔦を取り除きはじめました。
    少し、不気味さもある鉄の塊
    かつては、ここに本当に人が乗っていた
    蔦をとり草を抜き、その部分を丁寧に出す夫の姿に、「この人すすごいな」と思っていました。

    こんな大きなものを、日本から南の島へ運び、ここを走らせていた。
    そして、今もその跡がある。
    パラオの人たちは、その日をそのままおいてくれている。

    自分とは違う国の人、
    違う時代を生きた人、
    名前も知らない誰かの痛みを、

    「私には関係ない」

    と切り離さずに、そこにあったものを、そこにあったものとして残している。

    そして戦車の横に立つ夫を見て、

    「その服、生き残り兵士みたいじゃね?」

    なんて、不謹慎にも二人で笑ってしまいました。
    こんな冗談を言いながら、
    夫婦でここに立っていられる。

    それは、今が平和だから。

    私たちは、戦争のない時代に戦争のない国に生まれた。

    この平和が当たり前になっている。
    だけど、
    この平和を当たり前にするのではなく、

    知ること。
    想像すること。
    そして、次の世代へ渡していくこと。

    それが、この時代に生まれた私たちの、意味であり、責任なのかもしれません。


    パラオで見つけた愛のカタチ②。

    美しい南の島で、
    私は「平和」について、
    ずいぶん長く考えていました。

  • フレンドリーじゃなくていい?

    【パラオで見つけた、愛のかたち①】
    心と家族の相談室。家族肯定感の専門家 おかりなです。


    先日、結婚30年の旅行で、夫婦でパラオにいったんです。
    その旅で気づいた心と家族の整え方を何回かにわけて記していきたいと思います。

    パラオへ行く前、YouTubeショートでこんな動画を見ました。

    ■ パラオの人たちはフレンドリーじゃない?

    親日家で知られるパラオ

    パラオへ行く前、YouTubeショートでこんな動画を見ました。

    「日本人だとわかると、パラオの人たちが集まってきて歓迎してくれる」

    そんなイメージを少し持っていた私。

    ところが実際に行ってみると、
    みんなが笑顔で話しかけてくるという感じではありませんでした。

    第一印象だけなら、ちょっとこわもてに見える人もいます。

    南国特有の笑顔あふれる気さくな人たちそんなイメージで行ったんですね。

    「思っていたのと違うな…」最初はそう感じました。

    ところが、過ごしているうちに、私は別のことに気づきました。

    パラオの人たちは、
    フレンドリーではないのかもしれない。
    でも、とてもKindnessなんです。

    ■ 道路を渡ろうとすると、車が止まる

    パラオの中心地コロールを歩いていると、
    とても印象的だったことがあります。

    道路を渡ろうとすると、
    車が止まってくれるのです。

    私たちが道路を渡ろうとしていると、
    すっと車が止まる。

    「どうぞ」と
    大げさに声をかけるわけでもありません。

    ただ、止まる。

    それが何度もありました。

    「ちゃんと見てますよ」その意思表示

    自分が先に行けるのに、
    少しだけ止まる。

    相手の安全のために、
    自分の時間をほんの少し譲る。

    親切って、
    何か大きなことをしてあげることだけではないんですよね。

    誰かのために、
    少し立ち止まれること。

    ■ フレンドリーとKindnessは違う

    旅の途中では、
    現地の方がプルメリアの花を取って、
    私の耳にさしてくださったこともありました。

    たくさん会話をしたわけではありません。

    でも、その短いやり取りは、
    とても温かく残っています。

    フレンドリーさは、その人の気質。
    Kindnessは、その人が選ぶ行動。

    もちろん、
    フレンドリーで親切な人もいますし、
    この二つは反対のものではありません。

    もともと人見知りの私は

    「人と仲良くできる人」
    「気軽に話しかけられる人」
    「愛想のいい人」

    に、あこがれていたんですね。

    「もっと人と話せたらいいのに」

    けれど、
    パラオで少し考え方が変わりました。

    人見知りでもいい。

    たくさん話せなくてもいい。

    私はKindnessでいることはできる。

    ■ 愛とは、相手を大切に扱うこと

    これは家族関係にも通じると思います。

    愛というと、

    「大好き」
    「ずっと一緒にいたい」
    「たくさん話したい」

    という感情を思い浮かべることがあります。

    でも、
    毎日一緒に暮らす家族に、
    いつでもそんな気持ちでいられるわけではありません。

    意見が合わない日もある。
    イライラする日もある。
    一人になりたい日だってある。

    それでも、

    相手の話を聞く。
    相手の安全を大切にする。
    相手の領域を侵さない。
    相手を一人の人として尊重する。

    そんな行動は選ぶことができます。

    だから私は今、

    愛とは、
    好きになることだけではなく、
    存在を大切に扱うことなのかもしれない。

    と思っています。

    パラオで見つけたのは、
    美しい海だけではありませんでした。

    言葉ではなく、
    行動で表される親切。

    そして、

    「私も、こんな人でありたい」

    と思える生き方でした。

    また、パラオで気づいた愛のカタチを投稿していきたいと思います。お楽しみに!

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  • できなかった日を数えなくていい。
    今日また始めたら、今日は「始めた日」になる。

    ついつい目が向いてしまうこと。
    「また、3日坊主になってしまった」
    「また続かなかった」
    と、できなかった日のほうを数えてしまいます。

    でも、過去の3日間はもう変えられない。

    だけど

    今日また始めたなら、
    今日は「できなかった4日目」ではなく、
    「新しく始めた1日目」なんですよね。

    できてないと自分を責めるのでなく

    できたよね

    できることあるよねと

    自分や家族に許可を出してあげてみませんか?

  • 子どもへの「やめなさい!」の奥にあったもの。怒りを「希望」に変える3ステップ

    こんにちは。

    心と家族の相談室。家族肯定感🄬の専門家おかりなです。

    うちの子たちは、すでに社会人。
    お盆休み、子どもたちが帰省してきました。

    私はリビングで、パソコンに向かって帳簿付け。

    ちょうど決算期なので、私の周りにはレシートの山です。

    その横では、息子が友人とプールへ行くためにビーチボールを膨らませていました。

    そして、なぜか当たり前のように始まる、リビングでのビーチバレーボール🤣

    私はコーヒーも入れていたので、

    「こぼれたら怖いな〜」

    「電球に当たったら怖いな〜」

    と思いながら見ていました。

    そのとき、ふと昔のことを思い出したんです。


    「そういえば、次女ちゃん、昔、電球割ったよね」

    次女が小学生の頃。

    バトントワリングを習っていたので、家の中でもバトンを練習していました。

    そしてある日、

    ガシャーン!

    見事に電球を割ったことがあります。

    もちろん当時の私は、こっぴどく叱りました。

    その話をすると、次女が言いました。

    「そうそう。怒られた、怒られた💦」

    そして続けて、

    「でもさ、バトンの練習しなかったら怒られるし、家で練習して電球割っても怒られるし」

    ……。

    確かに。

    そりゃ理不尽だわ🤣


    そこから、今度は旅行中の「枕投げ事件」の話に。

    ホテルで子ども3人が枕投げをしていて、

    「やめなさい!」

    「もうやめなさい!」

    と何度も言っていた私。

    そして最終的に、

    飛んできた枕が、座っていた私の頭に命中。

    そこで母、爆発。

    3人を正座させて、かなり怒りました。

    すると息子が、

    「いや、あれは何回もやめろって言われた後だったから、怒られて当然だと思ったけどね」

    と。

    そんな昔話をしながら、みんなで大笑いしました。


    昔の私なら、たぶん笑えなかった

    今はこうして、

    「あのときのお母さん、理不尽だったね〜」

    と笑えます。

    でも、以前の私だったらどうだっただろう。

    子どもから昔のことを言われると、

    自分が責められたような、
    馬鹿にされたような、
    なんとも居心地の悪い気持ちになって、

    「だって、あのときは!」

    「何回言ってもやめなかったでしょ!」

    「そもそもあなたたちが悪かったんじゃない!」

    なんて、怒ったことを一生懸命正当化していたかもしれません。

    そして最後には、

    「親に向かって、そんな言い方しないの!」

    なんて、さらに怒っていたかも(笑)

    今思うと、

    あれは「怒り」だけじゃなかったんですね。


    怒りの下には、小さな感情がいる

    今回、息子がリビングでビーチボールを投げているのを見ながら、

    私は自分の中にある気持ちを眺めてみました。

    「コーヒーがこぼれたら怖い」

    「電球が割れたら怖い」

    昔のバトンのことを思い出すと、

    「練習しなくて、先生に迷惑をかけたら不安」

    「せっかく習っているんだから、上手になってほしい」

    そして、

    「娘が上手にできたら、私もうれしい」

    そんな気持ちもあったと思います。

    怖かった。

    不安だった。

    上手になってほしかった。

    ちょっと自慢でもあった。

    そんな小さなエゴたちが、

    「ちゃんと練習しなさい!」

    「家の中でやらないで!」

    という大きな声になっていただけなのかもしれません。

    エゴがあることが悪いわけでもありません。

    親だって人間です。

    怖いし、不安にもなるし、

    子どもには幸せになってほしいし、
    できればうまくいってほしい。

    ただ、

    希望として伝えることと、強制することは違う。

    今なら、それがわかります。


    怒りを「希望」に変える3ステップ

    家族にイライラしたっていいと思います。

    家族にイライラしたとき、

    すぐに穏やかな人になろうとしなくてもいいと思っています。

    まず、自分の心の中を見てみます。

    1.「私は今、どんな感情でいる?」と目を向け気づく

    「腹が立つ!」

    で終わらせず、その少し奥を見てみます。

    怖い?

    不安?

    困る?

    悲しい?

    恥ずかしい?

    感情を消そうとする必要はありません。

    まず、

    「ああ、私、怖いんだ」

    と気づくだけ。

    自分の感情に名前をつけるんです。


    2.その感情の奥にある「願い」を見つける

    怒りの奥には、本当は願いが隠れていることがあります。

    「家の中でボールを投げないで!」

    の奥には、

    「物が壊れないでほしい」

    「安心して過ごしたい」

    という願いがある。

    「ちゃんと練習しなさい!」

    の奥には、

    「上手になってほしい」

    「応援したい」

    という願いがある。

    もしかすると、「自慢の娘をもっと自慢したい」という気持ちもあったかもしれません。

    大人のエゴがあった。

    怒りだけを見ると相手を責めたくなりますが、

    願いまで見えると、

    少し言葉が変わってきます。


    3.命令ではなく「私の希望」として伝える

    「やめなさい!」

    ではなく、

    「電球に当たりそうで、私はちょっと怖いんだ。外でやってくれるとうれしい」

    「練習しなさい!」

    ではなく、

    「私はあなたが上手になったらうれしいな。応援してるよ」

    もちろん、

    いつもこんなにきれいに言えるわけではありません(笑)

    今でもです。

    でも、

    相手を動かそうとする言葉から、自分の気持ちと希望を伝える言葉へ。

    少しずつ変えていくことはできます。


    過去を笑えるようになったのは、あの頃の自分を責めなくなったから

    今、子どもたちと昔のことを笑い合えるのは、

    昔の私の子育てを

    「あの頃の私はダメな母親だった」

    と否定する必要はないんですよね。

    「過去の私を肯定すること」と「過去の行動を全部肯定すること」は同じではない

    感情:「怖い」「不安」「上手になってほしい」→ これは間違いではない。自然に起きたもの。
    願い:「安全でいてほしい」「上手になってほしい」→ これも大切な願い。
    行動・伝え方:「怒鳴る」「正座させる」「強制する」→ あの時はそうするしか知らなかったけれど、今なら別の選択肢があったとわかる。

    あのときの私は、あのときの私なりに一生懸命だった。

    そして子どもにも、

    「お母さん、あのときは理不尽だったよ」

    と思う自由もある。

    自分の感情と、怒りの違いがわかること。

    すぐにできなくても大丈夫。すると

    「あのときは、そうだったね」

    と一緒に笑える。

    私は、

    家族と笑い合える関係でいたい。

    だから今、その不安からの感情や状況を希望として伝える

    「こうしなさい」と家族に求めるのではなく、

    まず私自身が実践しています。

    怒らない母になることがゴールではなくて、

    怒ってしまう自分も、
    怖がっている自分も、
    子どもの言い分も、

    全部そこに置いて、

    また笑い合える場所に戻ってくる。

    家族肯定感®って、

    そんな力なのかもしれません。

    怒りをなくさなくてもいい。
    その奥にある「怖い」「不安」「こうなってほしい」に気づけたとき、
    強制だった言葉は、愛のある希望へと変えていけるのです。

    心と家族の相談室Thanks Gift
    花岡璃奈(おかりな)

    ご相談、お問い合わせは公式LINEから
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  • 自分を大切にすることと、自己中は何が違う?

    こんにちは。おかりなです。

    自分を大切にしてと言われてそうしようと思っても、それってわがままじゃない?って思ってしまう。
    そうおっしゃる方がいらっしゃいます。

    「自分を大切にすることと自己中って何が違うの?」

    実は、私もそうでした。

    自分の気持ちを伝えたとき

    「あんたって自己中だね」

    と言われちゃったんです。
    傷つきますよね。

    「あ、また嫌われた。」

    「また浮いてしまった。」

    そう思って、自分の気持ちを飲み込むようになっていました。

    だから「自分を大切にしよう」という言葉を聞いても、

    どこか怖かったのです。


    でも、自己中と、自分を大切にすることは、まったく違います。

    違いはどこにあるのでしょう。

    私は、

    「相手をコントロールしようとするかどうか」

    だと思っています。


    自己中とは

    自己中とは、

    「自分の思い通りになってほしい」

    という心に縛られている状態です。

    だから、

    認めてほしい。

    分かってほしい。

    謝ってほしい。

    変わってほしい。

    そう願ってしまう。

    それって実は相手の反応によって自分の心が決まってしまう。

    つまり、

    相手に振り回されている状態でもあるのです。


    自分を大切にするとは

    一方で、

    自分を大切にする人は、

    自分の気持ちや考えを大切にします。

    「私はこう感じています。」

    「私はこうしたいです。」

    と伝える。

    でも、

    相手には相手の考えがあることも知っています。

    だから、

    相手がNOと言っても、

    その人を変えようとはしません。

    自分の気持ちも大切。

    相手の気持ちも大切。

    その両方を尊重できます。


    とあるクライアントさんの話

    あるクライアントさんは、

    職場で無視されることに苦しんでいました。

    最初は、

    「私が悪いんだ。」
    「私が空気を悪くしているのかも」

    と、自分を責めていました。

    そのうち、

    「どうしてこんなことをするの!」

    と怒りも出てきました。

    でも、カウンセリングを続ける中で、

    一つのことに気づかれたのです。

    相手が無視することは、その人の課題。

    たとえ、相手が挨拶を返してくれなくても、私が挨拶するかどうかは、私の課題。

    だから、

    相手が返事をしなくても、

    私は挨拶をする。

    それは、

    相手を変えるためではなく、

    自分がそうありたいから。

    そう決められたとき、

    職場へ行くことが以前より苦しくなくなったそうです。


    家族肯定感®の視点

    家族肯定感®では、

    「我慢しなさい。」

    とも、

    「言いたいことを全部言いましょう。」

    とも言いません。

    大切なのは、

    自分の感情を否定しない。

    相手のことも否定しない。

    そして、

    相手がどう反応するかは、

    相手の自由。

    私は、

    私が大切にしたいあり方を選ぶ。

    それが、

    本当の意味で「自分を大切にする」ことだと思っています。

    相手がどうあろうと、私は私を大事にしていいと許可をだしてあげること


    あなた自身の気持ちを、置き去りにしていませんか?

    自分を大切にすることは、

    相手より自分を優先することではありません。

    自分も相手も、一人の大切な人として尊重すること。

    そこから、人との関係は少しずつ変わり始めます。

  • 8月6日の朝。世界平和は家庭から

    今日、8月6日。

    広島では、被爆から81年となる朝を迎えます。

    世界平和は、とても大きな言葉です。

    でも私は、
    家庭の中にある小さな平和こそ、
    世界平和の始まりだと思っています。

    原爆ドーム

    広島県に住む我が家では8時15分にテレビの前で黙祷をささげます。

    81年前の朝も、人々はいつもの暮らしを始めていました。

    ご飯を食べる人。

    仕事や学校へ向かう人。

    家族を送り出す人。

    それは、戦争中でなければ今日、私たちが過ごしてる今の風景と同じ。

    その何でもない日常が、一瞬で奪われました。

    戦争が奪うのは、抽象的な「平和」ではありません。

    家族と食卓を囲むこと。

    「行ってらっしゃい」と送り出すこと。

    また明日も会えると思うこと。

    そんな一人ひとりの普通の暮らしです。

    平和は、戦争がないことだけではない

    「世界平和」と聞くと、とても大きな言葉に感じます。

    戦争。

    核兵器。

    国と国との対立。

    私一人には、そんな大きなことはできないと思うこともあります。

    それはもっと身近な人を肯定する関係を気づくこと。

    例え、意見が合わなくても相手を否定しないこと。

    もちろん、家庭内の言い争いと戦争を同じものとして語ることはできません。

    被害の大きさも、責任も、まったく異なります。

    ただ、人の心の中で起きることには、どこか共通する部分があります。

    相手は間違っている。

    こっちのほうが正しい。

    あの人さえ変われば、すべてうまくいく。

    私は被害者。

    相手の事情や痛みを見なくなり、「悪い人」という一つの面だけで見るようになる。

    争いは、相手を一人の人間として見られなくなったときに、大きくなっていくのかもしれません。

    家族だからこそ、善悪で分けたくなる

    家庭の中でも、私たちはつい、誰が悪いのかを決めたくなります。

    夫が話を聞いてくれない。

    子どもが言うことを聞かない。

    親が頑固で、こちらの苦労を分かってくれない。

    兄弟姉妹ばかり大切にされた。

    家事も介護も、私ばかりが背負っている。

    実際に、不公平なこともあります。

    傷つけられたこともあるでしょう。

    辛かったですよね。

    その痛みまで消す必要はありません。

    嫌だったことは、嫌だった。

    傷ついたことは、傷ついた。

    ちゃんと必要な境界線を引き、心と物質的な距離を取ることも大切です。

    ただ、

    あの人は悪い人だ

    と相手の存在すべてを一つの言葉で決めたとき、私たちの心も、その人との争いに縛られ続けることがあります。

    相手を理解することは、相手を許すことではない

    夫が不機嫌になる。

    親が感情的に怒鳴る。

    子どもが乱暴な言葉を返す。

    その行動の奥には、本人も言葉にできていない不安や痛みがあるかもしれません。

    認められたい。

    自分の価値を失いたくない。

    見捨てられるのが怖い。

    自分の自由を奪われたくない。

    弱くなった自分を認めたくない。

    背景を見ることは、その行動を正しいと認めることではありません。

    傷つけられた側が我慢することでもありません。

    この人も、自分の痛みを守るために、未熟な方法を使っているのかもしれない。

    そう捉えることで、相手の行動と、相手の存在を分けて見ることができます。

    「その言い方は受け入れられない」

    とはっきり伝えながらも、

    「あなたの存在そのものが悪い」

    とは決めつけない。

    そこに、争いを次へ広げないための小さな余白が生まれます。

    自分の中にも、争う心がある

    平和について考えるとき、私たちはしばしば、

    戦争を起こす人。

    暴力を使う人。

    差別をする人。

    という、自分とは別の「悪い人」を思い浮かべます。

    けれど、自分の中にも、

    負けたくない。

    自分が正しいと認めてほしい。

    相手を言い負かしたい。

    分かってもらえないなら、もう無視したい。

    という心が現れることがあります。

    私にもあります。

    それは、悪い人間だからではありません。

    私たちにも、自分を守りたい心があるから。

    傷ついたとき、人は視野が狭くなります。

    相手の立場より、まず自分の痛みを守ろうとします。

    これは自然な心の働きです。

    だからこそ、争う自分が出てきたときに、

    「私は愛のない人だ」

    「私はちっぽけな人間だ」

    と自分を責めなくていい。

    私は認めて欲しかったんだよね。

    大切にされたかったんだよね。

    尊重して欲しかったよね。

    と気づくことが大切。それを相手に求めるのでなく。

    自分で自分を徹底的に愛すること。

    家族肯定感®は、争わない家族をつくることではない

    マザーテレサは『戦争反対の活動には行きません。平和活動は喜んで行きます』とおっしゃられたそうです。

    戦争反対というのは、戦争をせざるを得ない状況に追い込まれた人を否定してしまっているからかもしれません。

    家族肯定感®とは、一度もけんかをしない家族をつくることではありません。

    怒ってはいけないのでもありません。

    我が家もしょっちゅう意見が合わないことがあります。

    意見が違ってもいい。

    腹が立つこともある。

    距離を置かなければならない関係もある。

    大切なのは、違いが生まれたときに、

    相手を完全な悪者にしないこと。

    そして、自分だけを悪者にしないことです。

    「私が全部悪い」

    「あの人が全部悪い」

    という二つの視点から、

    私は、〇〇を大事にしてる。

    夫は〇〇に価値観を置いていると冷静に仕分けする余裕があること。

    そういう心の視点へ移ってみる。

    そこに、第三の道が見えてきます。

    どちらかが負けるのではなく、お互いの大切なものを知ること。

    同意できなくても、相手の存在を尊重すること。

    それが、家庭の中に平和の文化を育てるということなのかもしれません。

    意識の視点――「勝つ」から「苦しみを増やさない」へ

    争いの中にいるとき、私たちの目標は、

    自分の正しさを認めさせること。

    相手に謝らせること。

    勝つこと。

    になりやすくなります。

    けれど、視座を少し上げてみると、別の問いが生まれます。

    それを手に入れて、あなたは幸せになれますか?

    夫を言い負かしたあと、どんな夫婦関係になるでしょうか?

    子どもを従わせたあと、どんな親子関係になるでしょうか?

    親に正しさを分からせたあと、どんな時間を過ごせるでしょうか?

    逆に相手が勝ったとして、あなたが我慢し、犠牲を払った後、あなたの心には何が残りますか?

    目的が「勝つこと」から、

    苦しみをこれ以上増やさないこと

    へ変わると、選ぶ言葉も変わります。

    「あなたはいつも自分勝手」

    ではなく、

    「私は今、一人で背負っているようで苦しいの」

    「もうやだ!もう知らない!」

    ではなく、

    「このまま話すと傷つけ合いそうだから、少し時間を置きたい」

    自分の状況や感情を伝えながら、相手は否定しない関係の言葉を選んでいくこと

    それが、愛の視点からの境界線です。

    世界平和は、立派な人だけがつくるものではない

    平和のために何かをしようとすると、

    大きな活動をしなければ。

    正しい意見を持たなければ。

    歴史を詳しく知らなければ。

    と思うことがあります。

    もちろん、学び、伝え、行動することは大切です。

    でも今日、家庭の中でできることもあります。

    相手の話を途中で決めつけずに聞く。

    腹が立ったとき、すぐに言い返さず一呼吸置く。

    家族の失敗を、人格の否定に結びつけない。

    そして、自分にも同じやさしさを向ける。

    「また怒ってしまった私はダメ」

    ではなく、

    「私は何が怖かったのだろう」

    と自分の痛みに気づく。

    平和は、遠い場所にいる誰かだけに求めるものではありません。

    自分の中にある小さな争いに気づき、愛へ戻ることからも育っていきます。

    今日、自分に問いかけてみてください。

    私は今、家族の誰かを、あるいはあなた自身を「悪い人」にしていないですか?

    その人の行動の奥には、どんな不安や怒りや痛みがあるのだろう。

    その奥にどんな軸と価値観があるのでしょうか。

    そして、私が怒りの奥で守りたいものは何だろう。

    愛の視点で見ると、勝つことではなく、苦しみを増やさないために、今日はどんな言葉を選べるだろう。

    今日できる小さな一歩

    可能であれば、今日は8時15分に一分だけ手を止めてみてください。

    犠牲になった方々と、今も続く世界の争いに思いを向けてみてください。

    そして黙とうのあとに、身近な人を思い浮かべてみてくだはい。

    今、少し関係が難しくなっている人でもかまいません。

    ただ心の中で、

    「この人が幸せでありますように
    そして私の痛みも、大切にしていい」

    と唱えてみてください。

    相手を悪者から人間へ戻し、自分も悪者から人間へ戻りましょう。

    その一分が、今日できる小さな平和です。

    愛の視点から

    世界平和という言葉は、大きすぎるように感じます。

    けれど世界は、一人ひとりの心と、一つひとつの家庭でできています。

    自分の正しさを手放せない日もある。

    相手を責めたくなる日もある。

    愛の視点に戻れない日もあります。

    それでも、気づいたところから戻ればいい。

    平和な人とは、一度も怒らない人ではありません。

    怒りや恐れの中にいる自分に気づき、

    私は、ここから苦しみを増やさない選択をしたい

    と、もう一度愛へ戻ろうとする人なのだと思います。

    世界の平和を願う今日。

    家庭の中で、誰かを否定しないこと。

    そして、自分自身も否定しないこと。

    その小さな選択が、私たちにできる平和への一歩なのかもしれません。

    今日、あなたが大切な人を一人でも否定せずにいられたなら。

    そして、
    今日、あなた自身を一度でも責めずにいられたなら。

    その小さな愛は、
    きっと家庭を変え、
    やがて世界へと広がっていきます。

    今日、あなたの心が平和でありますように

  • 家族にイライラする自分を責めてしまうあなたへ

    家族にイライラする自分を責めてしまうあなたへ

    はじめまして、花岡璃奈(はなおか りな)と申します。
    おかりなと呼んでいただけると嬉しいです。

    私は、小さいころからとてもとてもコミュニケーションが苦手でした。
    活発な兄、人懐っこい妹に挟まれた中子(なかご)で、
    自分がほめてもらうために、手のかからない子。しっかりした子。でいる必要がありました。
    それは、大人になってからもずっと続いていました。

    あなたもきっと、家族のために頑張り
    家族に認めてもらえないと心を乱していないでしょうか。

    ―家族肯定感®は、家族を無理に肯定することではありません―

    家族を大切にしたいと思っているのに、
    どうして私は、こんなにイライラしてしまうのだろう。

    子どもに強く言ってしまったあと、眠っている顔を見ながら、

    「また言いすぎてしまった」
    「私は母親失格かもしれない」

    と、自分を責めたことはありませんか。

    夫の何気ない言葉や態度に腹が立ったり、
    親の介護をしながら兄弟と比較して「どうして私ばかり」と思ったり。

    本当は家族と穏やかに暮らしたい。
    できることなら、やさしく接したい。

    そう願っているのに、思うようにできない自分を責めてしまう方は、少なくありません。

    けれど、家族にイライラしてしまうのは、
    あなたの愛が足りないからではありません。
    あなたが未熟だからでも、性格が悪いわけでもありません。

    イライラの奥には、本当の願いがあります

    怒りやイライラは、とても目立つ感情です。

    だから私たちは、

    「怒ってはいけない」
    「もっと穏やかでいなければ」
    「私が我慢すればいい」

    と、怒りそのものをなくそうとしてしまいます。

    けれど、怒りの奥を丁寧に見つめていくと、そこには別の気持ちが隠れていることがあります。

    「私のことも分かってほしい」
    「少しでいいから助けてほしい」
    「私も大切にしてほしい」
    「もう、一人では背負えない」

    怒りは、あなたの中にある大切なものを守ろうとしているのかもしれません。

    本当は傷ついていた。
    本当は寂しかった。
    本当は、誰かに気づいてほしかった。

    その願いを置き去りにしたまま、怒らないように頑張り続けても、心はなかなか穏やかにはなれません。

    まず必要なのは、怒ってしまった自分を責めることではなく、

    あなた自身が
    「怒ってしまうほど、つらかった。頑張ってきたんだよね」と

    認めてあげること。そして

    「私は、本当は何を分かってほしかったのだろう」

    と、自分の心に問いかけてあげることです。

    家族肯定感®は、何でも我慢して認めることではありません

    「家族肯定感®」と聞くと、

    家族を何でも受け入れなければいけない。
    相手を許さなければいけない。
    嫌なことがあっても、家族だから我慢しなければいけない。

    そんな意味に感じる方もいるかもしれません。

    けれど、家族肯定感®は、家族の言動を無理に肯定することではありません。

    嫌なことを、嫌だと思ってもいい。
    傷ついたときは、傷ついたと言ってもいい。
    できないことを、できないと言ってもいい。

    相手を肯定することと、相手の行動をすべて認めることは同じではありません。

    また、誰かがあなたを傷つける言葉を言ってきたとき、その言動を、あなたが背負う必要はありません。

    大切なのは、自分や家族に起きていることを否定せずに見つめながら、

    「私は今、何を感じているのか」
    「私は本当は、どうしたいのか」

    に気づいていくことです。

    家族を肯定する前に、まずは自分の心の声を否定しない。

    家族肯定感®は、そこから始まります。

    「私の犠牲」から「私の幸せ」へ

    家族のために自分を後回しにすることが、愛だと思ってきた方もいるでしょう。

    家族が困らないように。
    子どもが傷つかないように。
    夫や親の機嫌を損ねないように。

    そうやって、ずっと周りを優先してきたのかもしれません。

    けれど、自分を満たすことは、家族を見捨てることではありません。

    休みたいときに休む。
    助けてほしいと伝える。
    自分の好きなことをする。
    一人になる時間を持つ。

    自分を大切にすることで、心の中に少しずつ余白が生まれます。

    その余白があるからこそ、家族の言葉や行動にすぐ反応せず、

    「この人にも、この人なりの理由があるのかもしれない」

    と見られる瞬間が増えていきます。

    自分を犠牲にして家族を幸せにするのではなく、
    まず自分が幸せになることから、家族の新しい幸せを始めていく。

    それが、家族肯定感®が大切にしている生き方です。

    イライラした自分も、家族の幸せを願っている

    家族にイライラしてしまったとき、
    すぐに自分を責めなくても大丈夫です。

    イライラするほど、あなたは何かを大切にしてきたのかもしれません。

    家族と仲良くしたかった。
    分かり合いたかった。
    もっと穏やかに暮らしたかった。

    怒りの奥にある願いに気づいたとき、
    自分や家族との関係を、これまでとは少し違う視点から見られるようになります。

    今日、もし家族にイライラすることがあったら、

    「私は本当は、どうしてほしかったのだろう」

    と、自分に聞いてみてください。

    答えがすぐに出なくても大丈夫です。

    自分の心を否定せず、気づこうとすること。
    そこから、家族の幸せは少しずつ動き始めます。


    今の悩みを一人では整理できないと感じている方へ。

    カウンセリング・コーチングでは、今起きている出来事や感情を一緒に整理しながら、心の現在地と、本当の願いを見つけていきます。

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