今日、8月6日。
広島では、被爆から81年となる朝を迎えます。
世界平和は、とても大きな言葉です。
でも私は、
家庭の中にある小さな平和こそ、
世界平和の始まりだと思っています。

広島県に住む我が家では8時15分にテレビの前で黙祷をささげます。
81年前の朝も、人々はいつもの暮らしを始めていました。
ご飯を食べる人。
仕事や学校へ向かう人。
家族を送り出す人。
それは、戦争中でなければ今日、私たちが過ごしてる今の風景と同じ。
その何でもない日常が、一瞬で奪われました。
戦争が奪うのは、抽象的な「平和」ではありません。
家族と食卓を囲むこと。
「行ってらっしゃい」と送り出すこと。
また明日も会えると思うこと。
そんな一人ひとりの普通の暮らしです。
平和は、戦争がないことだけではない
「世界平和」と聞くと、とても大きな言葉に感じます。
戦争。
核兵器。
国と国との対立。
私一人には、そんな大きなことはできないと思うこともあります。
それはもっと身近な人を肯定する関係を気づくこと。
例え、意見が合わなくても相手を否定しないこと。
もちろん、家庭内の言い争いと戦争を同じものとして語ることはできません。
被害の大きさも、責任も、まったく異なります。
ただ、人の心の中で起きることには、どこか共通する部分があります。
相手は間違っている。
こっちのほうが正しい。
あの人さえ変われば、すべてうまくいく。
私は被害者。
相手の事情や痛みを見なくなり、「悪い人」という一つの面だけで見るようになる。
争いは、相手を一人の人間として見られなくなったときに、大きくなっていくのかもしれません。
家族だからこそ、善悪で分けたくなる
家庭の中でも、私たちはつい、誰が悪いのかを決めたくなります。
夫が話を聞いてくれない。
子どもが言うことを聞かない。
親が頑固で、こちらの苦労を分かってくれない。
兄弟姉妹ばかり大切にされた。
家事も介護も、私ばかりが背負っている。
実際に、不公平なこともあります。
傷つけられたこともあるでしょう。
辛かったですよね。
その痛みまで消す必要はありません。
嫌だったことは、嫌だった。
傷ついたことは、傷ついた。
ちゃんと必要な境界線を引き、心と物質的な距離を取ることも大切です。
ただ、
あの人は悪い人だ
と相手の存在すべてを一つの言葉で決めたとき、私たちの心も、その人との争いに縛られ続けることがあります。
相手を理解することは、相手を許すことではない
夫が不機嫌になる。
親が感情的に怒鳴る。
子どもが乱暴な言葉を返す。
その行動の奥には、本人も言葉にできていない不安や痛みがあるかもしれません。
認められたい。
自分の価値を失いたくない。
見捨てられるのが怖い。
自分の自由を奪われたくない。
弱くなった自分を認めたくない。
背景を見ることは、その行動を正しいと認めることではありません。
傷つけられた側が我慢することでもありません。
この人も、自分の痛みを守るために、未熟な方法を使っているのかもしれない。
そう捉えることで、相手の行動と、相手の存在を分けて見ることができます。
「その言い方は受け入れられない」
とはっきり伝えながらも、
「あなたの存在そのものが悪い」
とは決めつけない。
そこに、争いを次へ広げないための小さな余白が生まれます。
自分の中にも、争う心がある
平和について考えるとき、私たちはしばしば、
戦争を起こす人。
暴力を使う人。
差別をする人。
という、自分とは別の「悪い人」を思い浮かべます。
けれど、自分の中にも、
負けたくない。
自分が正しいと認めてほしい。
相手を言い負かしたい。
分かってもらえないなら、もう無視したい。
という心が現れることがあります。
私にもあります。
それは、悪い人間だからではありません。
私たちにも、自分を守りたい心があるから。
傷ついたとき、人は視野が狭くなります。
相手の立場より、まず自分の痛みを守ろうとします。
これは自然な心の働きです。
だからこそ、争う自分が出てきたときに、
「私は愛のない人だ」
「私はちっぽけな人間だ」
と自分を責めなくていい。
私は認めて欲しかったんだよね。
大切にされたかったんだよね。
尊重して欲しかったよね。
と気づくことが大切。それを相手に求めるのでなく。
自分で自分を徹底的に愛すること。
家族肯定感®は、争わない家族をつくることではない
マザーテレサは『戦争反対の活動には行きません。平和活動は喜んで行きます』とおっしゃられたそうです。
戦争反対というのは、戦争をせざるを得ない状況に追い込まれた人を否定してしまっているからかもしれません。
家族肯定感®とは、一度もけんかをしない家族をつくることではありません。
怒ってはいけないのでもありません。
我が家もしょっちゅう意見が合わないことがあります。
意見が違ってもいい。
腹が立つこともある。
距離を置かなければならない関係もある。
大切なのは、違いが生まれたときに、
相手を完全な悪者にしないこと。
そして、自分だけを悪者にしないことです。
「私が全部悪い」
「あの人が全部悪い」
という二つの視点から、
私は、〇〇を大事にしてる。
夫は〇〇に価値観を置いていると冷静に仕分けする余裕があること。
そういう心の視点へ移ってみる。
そこに、第三の道が見えてきます。
どちらかが負けるのではなく、お互いの大切なものを知ること。
同意できなくても、相手の存在を尊重すること。
それが、家庭の中に平和の文化を育てるということなのかもしれません。
意識の視点――「勝つ」から「苦しみを増やさない」へ
争いの中にいるとき、私たちの目標は、
自分の正しさを認めさせること。
相手に謝らせること。
勝つこと。
になりやすくなります。
けれど、視座を少し上げてみると、別の問いが生まれます。
それを手に入れて、あなたは幸せになれますか?
夫を言い負かしたあと、どんな夫婦関係になるでしょうか?
子どもを従わせたあと、どんな親子関係になるでしょうか?
親に正しさを分からせたあと、どんな時間を過ごせるでしょうか?
逆に相手が勝ったとして、あなたが我慢し、犠牲を払った後、あなたの心には何が残りますか?
目的が「勝つこと」から、
苦しみをこれ以上増やさないこと
へ変わると、選ぶ言葉も変わります。
「あなたはいつも自分勝手」
ではなく、
「私は今、一人で背負っているようで苦しいの」
「もうやだ!もう知らない!」
ではなく、
「このまま話すと傷つけ合いそうだから、少し時間を置きたい」
自分の状況や感情を伝えながら、相手は否定しない関係の言葉を選んでいくこと
それが、愛の視点からの境界線です。
世界平和は、立派な人だけがつくるものではない
平和のために何かをしようとすると、
大きな活動をしなければ。
正しい意見を持たなければ。
歴史を詳しく知らなければ。
と思うことがあります。
もちろん、学び、伝え、行動することは大切です。
でも今日、家庭の中でできることもあります。
相手の話を途中で決めつけずに聞く。
腹が立ったとき、すぐに言い返さず一呼吸置く。
家族の失敗を、人格の否定に結びつけない。
そして、自分にも同じやさしさを向ける。
「また怒ってしまった私はダメ」
ではなく、
「私は何が怖かったのだろう」
と自分の痛みに気づく。
平和は、遠い場所にいる誰かだけに求めるものではありません。
自分の中にある小さな争いに気づき、愛へ戻ることからも育っていきます。
今日、自分に問いかけてみてください。
私は今、家族の誰かを、あるいはあなた自身を「悪い人」にしていないですか?
その人の行動の奥には、どんな不安や怒りや痛みがあるのだろう。
その奥にどんな軸と価値観があるのでしょうか。
そして、私が怒りの奥で守りたいものは何だろう。
愛の視点で見ると、勝つことではなく、苦しみを増やさないために、今日はどんな言葉を選べるだろう。
今日できる小さな一歩
可能であれば、今日は8時15分に一分だけ手を止めてみてください。
犠牲になった方々と、今も続く世界の争いに思いを向けてみてください。
そして黙とうのあとに、身近な人を思い浮かべてみてくだはい。
今、少し関係が難しくなっている人でもかまいません。
ただ心の中で、
「この人が幸せでありますように
そして私の痛みも、大切にしていい」
と唱えてみてください。
相手を悪者から人間へ戻し、自分も悪者から人間へ戻りましょう。
その一分が、今日できる小さな平和です。
愛の視点から
世界平和という言葉は、大きすぎるように感じます。
けれど世界は、一人ひとりの心と、一つひとつの家庭でできています。
自分の正しさを手放せない日もある。
相手を責めたくなる日もある。
愛の視点に戻れない日もあります。
それでも、気づいたところから戻ればいい。
平和な人とは、一度も怒らない人ではありません。
怒りや恐れの中にいる自分に気づき、
私は、ここから苦しみを増やさない選択をしたい
と、もう一度愛へ戻ろうとする人なのだと思います。
世界の平和を願う今日。
家庭の中で、誰かを否定しないこと。
そして、自分自身も否定しないこと。
その小さな選択が、私たちにできる平和への一歩なのかもしれません。
今日、あなたが大切な人を一人でも否定せずにいられたなら。
そして、
今日、あなた自身を一度でも責めずにいられたなら。
その小さな愛は、
きっと家庭を変え、
やがて世界へと広がっていきます。
今日、あなたの心が平和でありますように
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